教室の設立
戦後定められた医学教育基準に基づき、連合軍総司令部によりアメリカ流の予防医学の教育・研究の発展を目的として、公衆衛生学講座が新たに設けられることになった。
講座主任には、昭和25年、衛生学の助教授であった石崎有信が任命された。研究室として元医専の第三講義室を改装してこれにあてた。
歴代教授の経歴と研究課題
初代教授 石崎有信 (在職 昭和25年5月~昭和35年12月)
<教授略歴>
明治42年 |
富山県に生まれる |
昭和8年 |
金沢医科大学卒業 |
昭和25年 |
金沢大学公衆衛生学教授 |
昭和34年 |
ジョンス・ホプキンス大学公衆衛生学部生物統計学研究室に留学
(文部省在外研究員~昭和35年11月) |
昭和35年 |
金沢大学衛生学教室主任教授 |
<研究内容>
- イタイイタイ病の原因究明
- 環境汚染(河川の重金属汚染)についての実験的・疫学的研究
- カルシウム代謝の栄養学的調査
著書 『医学研究のための統計法』
<研究成果>
昭和25年5月から同35年3月までの石崎教授在任当時の教室業績としては、栄養学的な方面の研究が主であった。日本人の無機質とくにカルシウム摂取基準決定のためのカルシウム代謝の研究が中心であった。その一つとして、昭和31年金沢で開催された第二十六回日本衛生学総会(会長 大谷教授)で、「カルシウム代謝について」と題して特別報告を行った。また翌32年5月5日・6日に開かれた第十一回栄養・食糧学会総会でも、石崎会頭司会のもとに、「カルシウムの栄養学的緒問題」というシンポジウムがもたれた。もう1つの研究の方向は、同じく栄養学的方面の研究で、日本人の必要熱量決定のためのエネルギー代謝測定である。これによって北陸地方の乳児から青年期にいたるまでの者について基礎代謝量の基準値を与えた。さらに、当時社会問題として重大視されるようになっていた富山県のイタイイタイ病の原因究明にも着手し、同病が河川の重金属汚染によって発生したものであり、その主役がカドミウムであることを裏付ける幾多の業績をのこした。これら以外にも、衛生統計、産業衛生、環境衛生に関する研究で大きな成果を挙げた。
第二代教授 重松逸造(在職 昭和37年1月~昭和41年8月)
<教授略歴>
大正6年 |
大阪府に生まれる |
昭和16年 |
東大医学部卒業 |
昭和21年 |
国立公衆衛生院の厚生技官 |
昭和29年9月~30年6月 |
ハーバード大学公衆衛生学部修士課程入学
(Master of Public Health) |
昭和37年1月 |
金沢大学教授就任 |
昭和41年8月 |
国立公衆衛生院疫学部長(転出) |
<研究内容>
- 結核を主とする胸部疾患の疫学
- 循環器障害の疫学
- 小児の追跡的研究
- 生活環境や労働条件の健康への影響
- 集団や地域の健康管理
<研究成果>
重松教授は着任以来、結核を主とする胸部疾患の疫学、循環器障害の疫学、小児の追跡的研究、生活環境や労働条件の健康への影響、集団や地域の健康管理などを取り上げ、幅広い分野にわたって研究業績を挙げた。そして、これらの幅広い研究においては、公衆衛生学の診断学としての疫学が中心にすえられていた。結核の疫学に関する研究では、昭和41年6月4日に開かれた第四十一回日本結核病学会総会(札幌)で、「結核変遷の疫学的考察」と題した特別講演を行った。また、学生教育の一環として、臨床各科の協力のもとに、家庭健康管理の実習が行われた。
重松教授が公衆衛生院に転出してからは、加藤助教授が教室主任となり、疫学を基礎とした諸研究を引き続き行い、結核の疫学的研究では昭和45年7月11日の第四十五回日本結核病理学総会(仙台)でのシンポジウム「結核疫学の理論と実際」で加藤助教授は「都道府県別の結核まん延の消長とこれに関与した要因の分析、今後の展望」について報告した。
第三代教授 岡田晃(在職 昭和47年11月~平成5年8月)
<教授略歴>
昭和4年 |
富山県に生まれる |
昭和29年 |
北海道大学医学部卒業 |
昭和42年 |
国立公衆衛生院の厚生技官 |
北大公衆衛生学助手、福島医大公衆衛生学助教授、札幌医大公衆衛生学助教授を経て、 |
昭和42年 | 札幌医大公衆衛生学教授 |
昭和47年11月 |
金沢大学医学部公衆衛生学教授就任 |
<研究内容>
- 振動、衝撃、騒音、低周波空気振動、マイクロ波の生体影響、許容値に関する研究
- 環境要因の複合作用の研究
- 公衆衛生活動に関する基礎的研究
- 細胞、組織レベルにおける健康障害発現機序に関する研究
<研究成果>
岡田教授の代表的研究は、物理的環境刺激、すなわち振動、衝撃、騒音、低周波空気振動、マイクロ派などと生体反応に関するもので、人体における力学的応答、伝達様相、感覚・知覚の緒特性を究明して基礎的知見を確立し、影響、障害の全貌を明らかにするとともに、力学的応答と生理学的影響・障害との相関、量的反応関係について新知見を集積し、さらに対策の指針となる許容値の関する研究成果は、国及び国際的な許容基準に活用されている。一方、世界で初めて振動公害に関する先駆的な研究を手がけ、わが国で最も多発している職業病の一つである振動障害についても病態の解明に関して数多くの新事実を発見した。そのほか、化学的環境刺激と生体反応に関する研究、公衆衛生活動に関する基礎的研究、細胞、組織レベルにおける健康障害発現機序に関する研究等についても積極的に展開して、成果を挙げた。
岡田教授が赴任してからの公衆衛生学講座からは幾多の人材が輩出し、全国各地の衛生・公衆衛生学の教育研究者として活躍することとなった。
第四代教授 荻野景規(在職 平成7年2月~平成18年3月)
<教授略歴>
昭和60年 |
山口大学医学部助手 |
平成3年 |
山口大学医学部助教授 |
平成7年 |
金沢大学医学部公衆衛生学教授 |
平成14年 |
Duke大学にて研究指導 |
<研究内容>
- 生活習慣とフリーラジカル
- 重金属の生体作用
- 窒素酸化物の生体内発生とその防御
<研究成果>
荻野教授の研究は、環境毒性学と予防医学の二つの柱を中心にしている。中でも、消化器疾患、動脈硬化性疾患、アレルギー疾患の病態に深く関与するフリーラジカルに関する毒性学とその制御による疾病予防を中心に研究業績を挙げた。一例を挙げれば、タンパク質のチロシン残基のニトロ化は、一酸化窒素とスーパーオキサイドが反応してできるパーオキシナイトライトに起因することが知られていたが、好酸球ペルオキシターゼがチロシンニトロ化に重要な役割を果たすことを明らかにした。更に、アトピー性皮膚炎や胃潰瘍の病態モデル動物を用いた実験を通して、フリーラジカルと病態との関連性の解明、予防医学への応用の可能性について、精力的に研究を行った。環境毒性学の領域では、化学物質排出移動量届出制度(PRTR)に指定された化学物質など環境化学物質の毒性とバイオマーカーの検討を行った。学会への貢献としては、「日本予防医学会」を設立したことが大きな功績として挙げられる。少子高齢化社会の到来や医療保険制度改革など日本の医療を取り巻く急激な環境の変化に即した、新しい予防医学の提唱が必要との考えから設立されたもので、2003年に副理事長に就任し、研究者、民間人双方に対する啓蒙活動に精力的に取り組んだ。
第五代教授 中村裕之(在職 平成19年1月~ 現在)
教室の人事異動
1950(S25)年4月 |
公衆衛生学講座が文部省より設立認可 |
1950(S25)年5月 |
石崎有信初代教授就任 |
1950(S25)年7月 |
三根晴雄、講師昇任 |
1952(S27)年9月 |
三根晴雄講師、助教授昇任 |
1960(S35)年4月 |
石崎有信教授 衛生学講座に異動 |
1962(S37)年1月 |
重松逸造教授就任 |
1962(S37)年3月 |
三根晴雄助教授辞職 |
1962(S37)年7月 |
加藤孝之助教授赴任 |
1966(S41)年8月 |
重松逸造教授転出 |
1966(S41)年~
1972(S47)年 |
加藤孝之助教授が教室主任を担当 |
1968(S43)年2月 |
河野俊一講師赴任 |
1972(S47)年11月 |
岡田晃教授就任 |
1973(S48)年3月 |
加藤孝之助教授転出(金沢医科大学公衆衛生学教授)
|
1973(S48)年4月 |
河野俊一講師、助教授昇任 |
1974(S49)年6月 |
河野俊一助教授転出(石川県衛生公害研究所長) |
1974(S49)年6月 |
鏡森定信講師赴任 |
1974(S49)年8月 |
南正康助教授赴任 |
1975(S50)年1月 |
福山裕三助教授赴任 |
1975(S50)年3月 |
福山裕三助教授転出(旭川医科大学公衆衛生学教授) |
1976(S51)年6月 |
南正康助教授転出(産業医学総合研究所) |
1977(S52)年1月 |
坂元倫子助手、講師昇任 |
1977(S52)年9月 |
坂元倫子講師辞職 |
1977(S52)年9月 |
鏡森定信講師、助教授に昇任 |
1977(S52)年10月 |
水野徳美、講師に昇任 |
1980(S55)年4月 |
鏡森定信助教授転出(富山薬科大学助教授) |
1980(S55)年4月 |
水野徳美講師、助教授に昇任 |
1981(S56)年3月 |
水野徳美助教授、辞職(開業) |
1981(S56)年4月 |
有泉誠講師就任 |
1984(S59)年4月 |
有泉誠講師、助教授に昇任 |
1984(S59)年4月 |
野原聖一講師就任 |
1990(H2)年10月 |
有泉誠助教授、転出(琉球大学教授) |
1990(H2)年10月 |
野原聖一講師、助教授に昇任 |
1991(H3)年7月 |
中村秀喜講師就任 |
1992(H4)年1月 |
中村秀喜講師、転出(徳島大学助教授) |
1992(H4)年7月 |
中村裕之助手、講師に昇任 |
1992(H4)年9月 |
野原聖一助教授、辞職 |
1992(H4)年12月 |
中村裕之講師、助教授に昇任 |
1993(H5)年9月 |
岡田晃教授、金沢大学学長就任 |
1994(H6)年7月 |
岡沢孝雄助手、講師に昇任 |
1995(H7)年2月 |
荻野景規教授就任 |
1995(H7)年10月 |
岡沢孝雄講師転出(金沢大学留学生センター教授) |
1996(H8)年7月 |
長瀬博文助手、講師に昇任 |
2002(H14)年3月 |
長瀬博文講師転出(富山県衛生研究所環境保健部主幹)
|
2002(H14)年4月 |
信國好俊講師赴任 |
2003(H15)年3月 |
信國好俊講師転出(広島大学原爆放射線医科学研究所助教授) |
2003(H15)年3月 |
中村裕之助教授、転出(高知医科大学教授) |
2003(H15)年5月 |
神林康弘助手、講師に昇任 |
2003(H16)年7月 |
加藤昌志助教授赴任 |
2004(H16)年9月 |
加藤昌志助教授、転出(中京大学教授) |
2004(H16)年11月 |
人見嘉哲講師赴任 |
2006(H18)年3月 |
荻野景規教授転出(岡山大学医歯薬学総合研究科公衆衛生学教授)
|
2007(H19)年1月 |
中村裕之教授就任 |
参考・引用文献
『金沢大学医学部百年史』(昭和四十七年)
『金沢大学医学部百年史以後三十年の歩み』(平成五年)
ほか